講ー師紹介

はじめまして♪

リマーうたとピアノの音楽教室を運営しています、リマーです。

香川県坂出市出身。

坂出県立坂出高校音楽科声楽専攻。

島根大学教育学部特別音楽課程声楽専攻卒業。

歌を岩永十紀子、藤井文子、岡部多喜子に師事。

香川バッハの会、グループ礫、声楽グループレジェンメ等の演奏会に出演。

現在、香川短期大学附属幼稚園お母さんコーラス、白梅コーラス、みとよジュニアコーラス指導。

坂出と丸亀で音楽教室を開き、後進の指導にあたっている。

高校中学音楽免許取得
小学校二種免許取得 

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リマーの音楽ストーリー 


4歳より大手音楽教室でグループレッスンに通い始める。


 

ある日、母が仕事場で、
 「お姉ちゃんも行っているし、
 そろそろリマーも行こうか」と申し込みの電話をかけるのでした。


夕方、
 薄暗い部屋で
 「ああ。私もいよいよ通うのか・・・」と
 ワクワクよりも不安な気持ちが勝っていたと思います。


初めてのグループレッスンでは
 知らない子が2人いました。
 2人はお友達同士で、仲良しでした。
 1人のたまちゃんはすらっとした色白の美人さんでなんでもそつなく出来る長女ちゃんでした。
 私は彼女にとてもあこがれていて、うちの家族もみんな彼女が好きでした。
 姉に至っては、大人になって自分の子どもに同じ名前を名付けたほどです。


2人目のゆかちゃんは、後日きいたのですが、
 どうしても音楽教室がいやだったそうで、
 レッスンでは「いやだ」といいながらよく泣いていました。


そして3人目の私。
 私は3人兄弟の末っ子で、
 家ではよくしゃべる子どもでしたが、教室では一言も言えない、
 空気のような、おとなしい子どもでした。
 いつもグループの最後で、演奏も楽器も残り物でした。


そんな私の背中を
 母は押して前へ行かせようとするのですが、
 私はかたくなに拒みます。
 拒むすがたも見せられないので静かに足を踏ん張って拒否するのです。


それでも、音楽は楽しくて、

自分が弾いている音以外の音が重なって、
 音楽が広がる。
 その空間がすぐに大好きになりました。
 ある年の発表会では、アンサンブルで、いつものように残り物の楽器を担当したのですが、
 その楽器が、ドラムだったのがうれしくて、「なんだ、残り物ってかなりの福があるんだ」と思い、
 その後の人生、そんなに急いでものを選ぶ、という感覚がなくなったような気がします。


小学校に入って、
 「今しかできないんじゃない?」という母のすすめで鼓笛隊に入りました。
 あまりにはまって、
 そして、その頃みたルイアームストロングのCMに感動して、
 「私も自分のトランペットが欲しい」と

お年玉を貯めて
 楽器店に走ったのを覚えています。
 1000円札をいっぱい出して、
 「トランペットください」と、ちょっとルイアームストロングのBGMが後ろで流れているようなすてきな思い出があります。


いつも最前列で吹き散らしていたトランペット。
 もちろん、中学に入ったときも吹奏楽部に入部しました。
 そのとき、

「アンブシュア(トランペットの口の技法)が出来たら楽器を吹いてもいい」
 という先輩の言葉で

「簡単だろう」
 とやってみるのですが、出来なくて、


「あんなに小学校の時ブイブイ吹いていたリマーちゃんが最後まで吹けない」
 と友達が小学校まで報告に行くほどの落ちこぼれになってしまったのでした。

先輩の根負け?で楽器を吹くことになり、
 無事、
 一年生でコンクールにも出られたのでホッとしたのですが。

そういえば、最近、大人になって、やっとアンブシュアが出来るようになったので、
 コツがわからなかったのだと思います。


その後、香川県立の高等学校で唯一の音楽科がある、香川県立坂出高校音楽科に入学。

坂出高校では声楽に出会い、岩永十紀子先生に師事しました。



高校受験の時、音楽の先生の強い進めで音楽高校を決めました。

「ピアノで受験するわよね」
 とお話いただのですが、

(もちろん、ピアノはずっと弾いていたし、

 小学校の音楽では先生の替わりにピアノを弾いたり、
 小中のコーラス大会ももちろんピアノを弾いていましたので、
 先生もそのつもりだったようです。)


私は、

頭の中で、いろいろ考えての答えを出しました。

(ピアノか・・・・。

トランペットはアンブシュアがまだ出来ないのに、専門にはできないしな。

ピアノか。。。。)


とそのとき頭の中で一筋の光が飛んだのです。


「いえ、歌で行きます」


先生が書き留めていたペンを止め、ゆっくり私をみました。


「え?歌?」


そうです。私は合唱部でもないし、

コーラス大会では伴奏を弾いていたので先生にも、私と歌は結びつかなかったのだと思います。


でも、私はなんだか自信があったのです。


「うたは未知の世界。歌を知らないで、音楽は広がらない。歌で行こう」


そう強く思ったのです。


これには訳があって、


そこからさかのぼること2年。


音楽の授業で、

テストがあったのでしょうか。

歌を前で一人で歌ったのです。


何事もなく、歌って、

自分の机に戻ったとき、

隣の席の学級委員の男の子が、

「リマーさん、声、めちゃきれいやなあ。歌、うまいなあ」と言ってくれたのを覚えていて、

あのとき初めて言われたので(子どもの時、末っ子だったわたしは、兄から『音痴」と言われ育だちました)

とてもうれしくて

受験を決める一筋の光と一緒にあのときの言葉がよみがえったのです。


(余談ですが、大人になって、学級委員の彼にそのことを話すと「全く覚えていない」と笑っていました。

しかし、その後、彼の娘さんはリマー音楽教室に入るのでした。めぐるとはこういうことでしょうか。)


その後無事に高校入学、声楽を学ぶ日々を送りました。

朝練のため、うすぐらい時間に学校に着き、音楽棟で練習し、

全国大会に行くほどの合唱団にも入部しました。

本当は先に吹奏楽部の門をたたいたのですが、

「声楽だったらもちろん、合唱部に引き抜かれるから(吹奏楽部に)入部できないよ」と門前払いをうけたのです。

合唱部で毎日練習して、全国大会にバンバン出ることになるのですが、

ちょっとくやしいので、

副科でとったチェロを猛練習して、オーケストラに入りました。

クラリネットの友達に使ってないクラリネットを借りて、吹奏楽部クラブにも入っていました。

毎日毎日音楽漬けで

音楽の素晴らしさ、喜び、を教えられ、音楽の世界に魅せられることになるのです。


3人兄弟で、高校受験を音楽に決めたときの父との約束で、

「おまえだけ、音大に行かせられない。近くの国立だったら音大に行ってもいい」と言われていましたので、

ちょっと近くの島根大学に進学を決めました。


島根大学には師事したい先生がいたのです。


大学入学すぐ、1回生は教養科目から授業を埋めていくのですが、

私は師事したい先生のところへ一番に行って授業を組みました。


「1年生は最後よ」と言われたのですが

わたしは

「音楽を学びにはるばる香川からきました。取りたいものからお願いしに来たのです」と熱く語り、無事最初に組ませてもらいました。

その後、どんどん音楽関係の授業ばかり組んでいってからの教養科目の履修でしたから、

卒業するまで音楽課程の友人とほとんど授業が一緒になりませんでしたけど(笑)。


そのおかげで、音楽以外の友人もたくさん出来ました。

もちろん、合唱やオーケストラなど、大人数で受ける科目で音楽の友人もできました。

ここでも、ホルン専攻の友達に使ってないホルンを借りてホルンのレッスンも受けることになりました。


大学ではさらに音楽の教養を広めつつ、次世代への指導を夢見て、教育にも力をいれました。

教育学部でしたので、

教育専門の授業も充実していましたし、

小学校や中学校でもたくさん授業をさせていただいたりもしました。

教育学部は何回も教育実習に行くのです。

しかも、付属小中学校以外にも行くので、

さまざまな子どもたちと接することができました。

授業をうけずに仰向けになって天井を見つめる子どももいました。

わたしは同じ気持ちになってみようと、

となりで同じように仰向けになって天井をみつめます。

ああ。

今、きみの気持ちはこうなのか。

と寄り添うことが出来ます。

その後、

彼は私から離れようとしませんでした。

一緒に寝転ぶ大人は初めてだったのだと思います。


子どもと教育、音楽をさらに深め、

松江市民合唱団にも入り、

どんな年代でも、それぞれの生活を送っても、音楽で一つになれる。音楽がみなを集めていることに感動しました。

生涯音楽の大切さを知り、オーケストラ、合唱にも力を入れ、

大学が休みの日には大山のすばらしい教会で聖歌隊としても音楽で喜びを伝ました。


結婚という門出を私の声でお祝いでき、

「リマーさんの声で私の結婚が明るくスタートした」と花嫁が泣いてくれました。


私の歌で人のお祝いができる、人に力を与えることができる、とても感動しました。


大学卒業後、香川に戻り、多くの演奏会に出演しました。
 

私立高校学校音楽、同校合唱部の指導と伴奏、

大手音楽教室講師、

大学メサイア合唱団ボイストレーナーをしながら、

自宅で音楽教室を開くことになりました。


卒業時に大手音楽教室へ就職が決まっていて、週6の稼働がきまっていましたが、

高校と大学から呼ばれ、楽器店も快く週4に変更していただき、

すべての場所で勉強する、すべてのことを、すべてのところへ還元できるよう毎日を送りました。


徐々に自宅の生徒さんが増えていき、

時間が難しいこともあり、

音楽教室は3年、高校は5年で退職しました。

そのとき、週4の音楽教室では40人の生徒さんとレッスンをしていました。


その後も自宅の教室をしながら、カルチャーセンターの合唱団、市民混声合唱団、公立中学校音楽、公立小学校担任、法人高校音楽講師から声をかけていただき、

後進の指導にたずさわりました。


現在、丸亀、坂出で音楽教室を運営しながら、みとよジュニアコーラス指導、白梅コーラス、香川短期大学附属幼稚園お母さんコーラス指導、伴奏を続けています。


音楽で関わったすべての生徒さんの数は約500人を超えました。


大人の生徒さまからは、「音楽で癒やされた」「子どもの頃からリマー先生に会えていたらもっとはやく、音楽がすきになっていました」「リマー先生のピアノも歌も幸せになれます」「『世界を音楽で平和にしたい』という言葉をリマー先生から聞いて、すごい、この先生なら絶対できる」とうれしい言葉をいただいています。


子どもたちは、自分を肯定できる子ども、自分を好きになってもらいたいと思いながら指導させていただいています。

元気にレッスン室に入ってくる子どもたちをみて、

今日もしっかり生きているね!と声をかけ、すべての行動や発言、演奏を肯定し、子どもたちの元々もっている力を引き出し、生涯をかけて、自分を好きになり、音楽を好きになれるよう、指導しています。


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